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【報告】2006/03/04〜05 
学校づくり・学校評価・教職員評価討論交流集会 基調報告(5.「子ども参加・父母共同の学校づくり」の到達点と課題)

5.「子ども参加・父母共同の学校づくり」の到達点と課題

(1)この間築いてきた重要な到達点
 これらのとりくみをすすめつつ、何といっても学校づくりがカナメです。この間の「子ども参加・父母共同の学校づくり」の到達点について述べます。
 
� 岾惺擦鼎�り」そのものについて
 「参加と共同の学校づくり」のとりくみは、全体として大きく前進してきており、そのことは、「未来をひらく教育のつどい2005」でもしっかりと確かめられてきました。「学校づくり」を直接のテーマとする第20分科会では共同研究者から、「これまでは、各学校において『三者協議会』を設置する(した)ことについての報告や『アンケート』調査等についての報告と討論が主であったように思うが、今年度のそれは、『三者協議会』や『参加と共同の学校づくり』をとおして見えてきた、学校のあり方そのものについて深める討論になったように思う…いま全教が提案している『学校づくり』が具体的な姿で全国に広がりつつあることを実感した2日間の分科会であった」という感想が寄せられているように、「学校づくり」が「システムづくり」という枠にとどまらず、学級で、学年で、地域とともに、とさまざまな舞台で、きわめて多様に、多彩に展開されてきているという到達点と発展段階を築いてきており、こうした到達点に立って、今後いっそう多様に、多彩に発展させられるべきものであることが確かめられてきています。
 
 また、「教育フォーラム」をとおしても、全国各地で、「参加と共同の学校づくり」は、特別の学校の特別のとりくみはなく、どのような地域、条件、校種であっても、父母と教職員の共同は可能であること、それは、父母と教職員の共同は、子どもの成長・発達を目的としているからにほからないことが確認されてきています。
 
 さらに、学校統廃合反対のとりくみをとおしても、子どもたち自身が学習権主体として、父母が教育権の持ち主として、地域住民が主権者として登場し、新たな共同が広がるという状況が各地で生まれてきており、この面からも「参加と共同の学校づくり」の前進が確認できるところです。
 
�◆岾惺刺床繊Χ疑Π�評価」押しつけとの関係で
 「教職員評価・学校評価」押しつけ攻撃の強まりのもとで、この攻撃を許さないとりくみにかかわる政策的探求の深まりともあいまって、多くの組織が、「学校評価・教職員評価」押しつけ攻撃との対抗軸として「参加と共同の学校づくり」を正面にすえてきていることは重要です。それは、「参加と共同の学校づくり」という方針に対する理論的確信のみならず、この間の「教職員評価・学校評価」押しつけとのたたかいなどをとおした実践的確信となってきていることを示しています。
 
(2)今後の課題について―「参加と共同の学校づくり」を一つひとつの学校からすすめ、とりくみを飛躍させるために
 「子ども参加・父母共同の学校づくり」は、上記の重要な到達点を築いてきていますが、現場ではまだ躊躇があるのも事実です。これまでも、「一人からでも始められる」とか、「父母といっしょにとりくんだら楽しいよ、という経験を広めよう」とか、さまざまなことを提起してきましたが、今回、「学校づくり5つの提案」も意識しながら、よりいっそう深め、これならだれでもとりくめるのではないか、という3点に絞って提案します。ぜひ、明日の分散会での討論も含め、各組織で議論、検討していただきたいと考えます。
 
�〇劼匹發寮爾鯤垢海�
 第1は、子どもの声を聞こう、ということです。子どもの声を聞くことは、だれでも、どんな学校でもできるのではないでしょうか。いや、すでに日常の教育活動をとおしてやっておられることではないでしょうか。そのことをぜひ、意識化してとりくもうということを呼びかけたいと思います。
 
 教育の目的は、「人格の完成」をめざすことであり、言い換えれば、子どもの成長・発達を助けることにあります。つまり、発達主体、学習権主体は子どもであり、子どもの意見をきかずして、その成長発達を助けることはできないということです。とりわけ、子どもたちは「競争と管理」の教育政策によって苦しんでいます。そのうえ、「構造改革」路線によって子どもの安心のよりどころである家庭生活までこわされています。しかしそのもとでも、子どもはけなげに生きています。学ぶこと、生きることの意味を求めて必死に生きています。その子どもを受け止めようではありませんか。
 
 子どもをまず受け止めることができるのは、子どもを産み育ててきた父母、子どもの成長と学習に重要な役割を担っている教職員をおいてありません。「子どもの声を聞くこと」は子どもを丸ごと受け止めるための第一歩です。ですから、父母にも、「子どもの声を聞こう」と言いましょう。父母と教職員の双方が子どもの声を聞くことによって、子どもの願いがわかり、共通理解ができます。子どもの願いがわかれば、父母と教職員の両方が、子どもの成長をあたたかいまなざしで見守ることができます。そして、子どもの成長を励ますことができます。それは子どもの成長・発達に必ず積極的影響をもたらすものです。ここから、子どもの成長・発達を助ける父母と教職員の共同がはじまります。子どもの願いの実現は、父母と教職員が力をあわせることを必然的に要請するものです。
 
 「参加と共同の学校づくり」はそれ自身自己目的ではありません。くどいようですが、目的は子どもの成長・発達にあります。この目的のために、子どもの声を聞くことを少し意識してすすめることからはじめようではありませんか。
 
��父母の声を聞こう
 第2は、父母の声を聞こうということです。このことも、だれでも、どの学校でもできることではないでしょうか。支配勢力がふりまく意図的な公務員バッシングや学校バッシング、教師バッシングの中で、父母の声を聞くことにいささか躊躇している教職員もいます。時には、父母から学校や教職員に対して、異議申し立てもふくめた手厳しい批判の声が寄せられることもあります。しかしそれは、学校に対する不信とばかりはいえません。本質的には、「構造改革」路線による「格差社会」の広がりや、教育政策があまりにひどいためであるといえます。事実、朝日・ベネッセ調査や文部科学省がおこなった調査の結果をみても、自分の子どもの通う学校に対して信頼を寄せている父母は、7割をこえています。圧倒的多数の父母は、学校に信頼を寄せているのです。信頼しているからこそ、異議申し立てができるのです。教職員ももっと父母を信頼して、まず少し心を開きましょう。そして父母の意見を聞きましょう。
 
 しかし、実際には、教師が指導困難に直面している場合や、子どもの家庭が子育て困難に直面している場合もあります。でもよく考えてみましょう。教師の指導困難は、子どもの成長・発達を保障したいと思っていてそれがうまくいかない事態となっている場合であり、父母の子育て困難も、子どもをちゃんと育てたいと思っているのにもかかわらず、それがさまざまな事情でうまくいかない事態にあることです。子どもをすこやかに育てたいという願いは共通しているのです。ですから、教職員は指導困難に直面していても、父母の意見を聞きましょう。全国の実践は、そうした場合に、父母は教師を追いつめることなく、必ず、「私たちに何かできることはありませんか」と対応し、教職員と共同することができることが報告されています。教職員の側も、困難もふくめ率直に語ることが必要です。
 
 また、父母が子育て困難に直面しているときには、父母は必ず自らの生活を語られます。どのような場合にでも、共感関係が必ず生まれます。この共感的関係は、必ず共同へと発展するものです。
 
 教育は、人間的信頼に基礎を置かなければ成り立たないいとなみです。子どもと教職員、そして父母と教職員も、必ずこの人間的信頼でむすびあわせることができるものです。父母の声を聞くことは、そこへの大きな踏み出しの第1歩です。
 
�N�直に自分の実践を困難もふくめて職場の仲間に語ろう
 第3は、職場の仲間に、自分の実践を語ろうということです。自分の実践を語る場合、実際に指導困難に直面している場合には、これを職場の仲間に語るには、少しばかりの勇気が必要です。しかし、ほんの少し心をひらけば語ることができます。
 
 そもそも、教育といういとなみは、失敗なしには成立しないものです。それは、人間の成長・発達が失敗なしにはありえないという厳然たる事実に由来します。ハイハイをしていた子どもが立とうとするときには、必ず転ぶのです。言い換えれば、転ぶことを覚えずに、立つことはできません。立つことに対して転ぶことが失敗であるとするならば、その失敗なしに成功はないのです。
 
 自立に向かう2・3歳の子どもが、周りから見ていると自分ではできそうもないことを「自分で、自分で」といってやろうとします。そして、必ず失敗します。しかし、この失敗経験なしに、子どもは自立へ向かって自分を押しあげることはできません。
 
 教育は、こうした子どもの発達に徹底的につきあう仕事です。ですから、教育といういとなみには、失敗がつきものなのです。「うまくいかない」というのは、教育という仕事につきまとうものです。
 
 教職員は、みんなこうした事態に直面しながら、毎日教育活動にとりくんでいます。ある条件のもとでは、子どもたちが見せる教師に対する反発や反抗が大きくなり、それが時には授業の成立そのものを危うくするほどにもなるときがあります。しかし、子どもたちは、そうして反発、反抗しながらも自分自身を探し、模索し、新しい自分をつくろうともがいているのです。悩み、苦しんでいるのは自分だけではありません。教育といういとなみに携わっている限り、悩み、苦しみがあります。それは、教育といういとなみが本質的に未来をつくる仕事であるからだといって過言ではありません。すいすいと仕事をしているように見える、隣に座っている同僚も、悩みや苦しみをかかえています。少しの勇気を出しましょう。そして自分を開きましょう。真剣に子どもと向き合っている限り、その悩みをさげすむ仲間はいません。「実は、私も・・・」という話が必ず出てきます。みんなで支えあい、励ましあう関係が必ず生まれます。職場の仲間に支えられれば、もっと勇気がわいてきます。元気になることができます。教職員の共同は、こうした教育のいとなみの本質に根ざすものです。したがって、どんな学校でも、まただれであっても、そこに教育といういとなみがある限り、教職員の共同は可能です。その第1歩は、自分の実践、教育活動を仲間に出すことから始まります。
 
�せ劼匹發寮爾鯤垢�こと、父母の声を聞くこと、職場の仲間に自分の実践を語ることは、だれでも、どのような条件、校種の学校でも、どのような職種でもできる
 
 いま述べてきた、子どもの声を聞くこと、父母の声を聞くこと、職場の仲間に自分の教育実践、教育活動を語ることは、だれでも、またどのような条件の学校でも、どのような校種であっても、どのような職種でもできることではないでしょうか。
 
 私たちは、ずっと「『参加と共同の学校づくり』を難しく考えない」と言ってきました。今回あらためて、以上のような問題提起としてまとめました。ぜひ、ご検討いただきたいと思います。



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