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【行動】2006/10/14
10・14教育基本法改悪反対大集会(東京・明治公園)に2万7000人!【連帯あいさつ�◆�
【連帯あいさつ】上原 公子 国立市長
みなさん、こんにちは。
とっても賑やかなバックつきです(※1)。何年前でしたか、国立では国立2小問題といわれるものがありました。このような方たちが63台も国立の町に来たんです。1台1台が大音量で、63台が通り抜けるのに1日かかるんです。
でも、私たちは上品に行きましょう。これだけの人たちが情熱を込めて結集したんですから大丈夫です。
今日、千駄ヶ谷駅を降りて歩いて来ました。ぞろぞろと本当にすごい人の数の流れに入りながら、「ああ来てよかったな」と思いました。まだまだ、われわれの力は衰えていません。
さて、たいへん不安に思います今回の教育基本法「改正」法案。前文の中に、「公共の精神を尊び」という言葉が入っておりました。「公共」とは、彼らが言う「公共」とは一体何なんでしょうか。私はこれがとても気になります。と申しますのは、有事3法案が提出された時に、私は政府に44項目の質問をしました。
「基本的人権はどうなるか」という質問に、「高度の公共の福祉のためには、最小限の制約はありうる」と回答がありました。�犢眦戮慮�共の福祉�瓩箸浪燭召筺�これは武力攻撃事態法における「高度の公共の福祉」ですから、「公共」とは戦争を意味しております。まさに、この「公共」ということが教育基本法に入ったということが、重大な問題だと思っております。
実は、5月11日に朝日新聞がすごく良い記事を書いてくれました。(現行の)教育基本法が審議をされた特別委員会での議論です。�犢餡伴腟繊∩澗亮腟舛箸いγ罎如�個人の尊厳が損なわれていったこのことを何としても止める言葉がほしい�瓠腹┌押法宗修泙気剖軌藉靄榾,虜�源はここにあったんです。「公共」と「私」とどういうふうにたたかわせるか、ここが問題だったんだそうです。
今日は佐高さんが来てらっしゃいますので、敬意を表して佐高さんの敬愛する師の言葉をちょっと使わせてもらいます。久野収氏は国立に何度も来てくれました。そして公民館で彼が語った言葉に、まさに「公共と私」という話がありました。「『公共』は『私』を自由にしておかなければいけない」。それは首長も市の職員も、公務員すべてがそうです。なぜならば「公共」が「私」に介入した途端に自由が失ってしまう。戦時中まさにそうでした。いま考えればつまらない話ですが、パーマをかけてはいけないとか、そういう個人的なことに「公共」が介入してくる。それが一番恐ろしいんです。
ですから、いろんな意味でのクオリティ、文化とか、そういったものは「私」の中からしか絶対に生まれない。「公」が介入した途端、私たちは「公」の名の下に死に至っていくまで連れて行かれるのだと、このことを久野さんは30年前に語られていました。
今日、私はみなさんに憲法の97条の基本的人権のことを最後に述べたいと思います。当たり前ですけれども、私たちが自由に私たちらしく尊厳を持って生きる、その保障が97条に書かれています。「不可侵の権利」と書かれているんです。
今回の改悪は、この「公共の精神」と言う名の下に、私たちが唯一最後までもてる基本的人権を制約していく、「公共」が「私」に介入していくことを許す、ということが書いてある。
このことをしっかり訴えてまいりましょう。本当にみなさんご苦労さまでした。
※1 集会会場周辺を黒塗りの街宣カーでまわり、大音量で集会を誹謗中傷し妨害している人たちを指す。
※2 朝日新聞(5月11日付)は「子どもたち育む理念」「せめぎ合う国家と個」と題し、現行の教育基本法の成立過程と教育基本法「改正」案についての特集記事を掲載。その中で、1946年9月23日に、自己犠牲を求めた教育を転換し、新しい理念をどううち立てるかと、現行教育基本法をつくるために文部省の会議室で始まった特別委員会での委員のやりとりを紹介。第4回特別委員会の東京文理科大(後の東京教育大学)学長の務台理作氏の発言に「軍国主義や極端な国家主義に利用されない決心を表す言葉が欲しい。個人を犠牲にせず、個人の自由を尊重する精神が基礎になければならない」とある。
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