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【陳述】2007/05/16 
教育再生特別委員会 中央公聴会(田中 孝彦 都留文科大学教授)

2007年 5月16日 田中 孝彦 都留文科大学教授

 都留文科大学に勤めております田中孝彦です。
 私は、日本の庶民の子ども観や教育観の研究を仕事としてきました。特に最近では、困難を抱えた子ども、そしてそれを支えている大人、専門家の人たちの声を直接に聞いて記録する、そこから教育のあり方を考え直していく、それを臨床教育学と呼んでおりますが、そういう研究をしてきました。
 そこで、その立場から、私が聞き取ってきた、子ども、きょうは特に教師たちの声をもとに、教育3法案と教育の再生、改革について意見を述べさせてもらいたいと思います。
 
 まず最初に、その3法案全体の印象と意見ですが、法案の名前が長いので、A、B、Cと勝手につけさせていただきました。
 Aには、規範意識、公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画する態度、生命及び自然を尊重する精神、環境の保全に寄与する態度、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うなど、義務教育の目標が新たに書き込まれています。
 それから、Bでは、新たに文部科学大臣が教育委員会に対する是正、改善の指示、要求を行えるとされ、知事が私立学校に対して教育委員会の助言、援助を求めることができるとされています。
 さらに、Aでは、新たに副校長、主幹教諭、指導教諭を置くこととされ、Cでは、教員免許状の有効期間を十年として、免許状講習の修了を更新の条件とする教員免許状更新制を導入するということが記されています。
 これらは、全体として、憲法、47年教育基本法を軸とする教育法制における、国の教育内容への関与の抑制、教育の地方自治と教育委員会の自律性の尊重、教師の教育の自由と、子どもを支える人々の協力、協同の尊重などの原理を転換して、国が教育目標を設定し、それに基づいて子ども、教師、学校、地域による目標達成の競争を組織し、教育を管理するシステムを構築することへ道を開くものになっていると見えます。
 しかし、人間形成を支える教育の条理から見て、また今日の子どもたちの声や教師たちの声に照らしてみて、さらに世界の教育改革の動向に照らしてみて、このような措置についての異論が出るのは当然であると思いますし、私自身も根本的な疑問を感じています。3法案は廃案にして、国会でも社会全体でも、より丁寧で本質的な教育の改革、再生の論議を行う必要があって、そのための論議の土俵の再設定が必要である、そういうふうに考えております。
 
 時間が制限されていますので、そう考える理由を3点にわたって述べさせてもらいたいと思います。お渡ししました資料の2は省略します。3のところをごらんください。
 改正教育基本法及び今回の教育3法案は、法案作成と国会審議の過程を振り返ればわかるように、日本の子どもたちの現状を、生きる力の衰弱、学習意欲、学力の低下、規範意識の低下と断定する子ども観と結びついています。そして、地球規模の大競争時代という一つの21世紀像への適応を子供たちに求め、厳しい競争的環境に置いて生きる力と学力を刻み込む、そういう国家戦略としての教育観に立っています。これは、政府・与党が推進している教育改革の全体を貫く子ども観、教育観でもあると思います。生存、成長、学習の主体である子どもたちの状態を、このように外側からだめだと断定しておいて、血の通った教育改革を構想して実現できるのか、私には疑問であります。
 確かに、今、子どもたちの多くは、人と人とを敵対させる力が強く働いている日常生活の中で、何かがあれば自他を傷つける形で爆発させてしまうほど緊張や不安や恐れをためています。しかし、だからこそ、その子どもたちの多くは、その年齢なりに、このままで大人になっていけるだろうか、大人として生きる地域や日本や地球はどうなっているか、どう生きたらよいかといった問いを抱かざるを得なくなっています。
 私は、この間重ねてきた子どもたちとの対話、相談の中で実際に、競争の先に何があるのか疑ってしまう、ささやかでいいから普通の幸せが欲しい、身近な人間関係を大切にして少しでも人の役に立つ仕事につきたい、そう思うのに、生まれ育った地域に若者の働き口がないのはどうしてだろうか、それらのことを一緒に考える友達や大人に出会いたい、そういった言葉を数多く聞いてきました。
 これらの言葉に、私は、普通の日本の子どもたちの生活感情の基調が表現されていて、彼、彼女らは、ただだめになっているのではなくて、考えたがっているし、学びたがっているものであると判断しています。
 だとすると、政府・与党の教育改革が強調する競争と厳しさは、子どもたちが求めているものとはすれ違っています。重要なことは、子どもたちの身近にいる父母、大人、発達援助者、教師たちが、子どもの声に耳を傾け、子どもたちの緊張や不安や恐れを受けとめ、広く深く噴き出している子どもたちの生き方への問いをともに考えることであって、それを子どもへの援助と教育の軸に据えることであると思います。教育改革の原理は、競争と厳しさではなくて、考え抜かれた優しさでなければならないと思うわけです。
 
 次に、私は、学級崩壊に直面した教師たちの声を聞き取ってきたことがあります。それらの教師たちの語りには次のような共通性がありました。
 一つは、何かがあるとすぐに教室を飛び出してしまうような子どもたちがいて、彼らを理解し、彼らと関係を結ぶことが難しかったということです。もう一つは、崩壊状況になって、同じ学校の教師に相談したところ、同僚の教師たちから、あなたの指導力不足ではないかという非難のまなざしが返ってきて、それがひどくつらかったということです。ある教師は、自分自身が心身の調子を崩し休職せざるを得なくなった直接のきっかけは同僚関係のきつさだったと語っています。
 これは、教師たちの苦しみの語りであったわけですが、今の教師の困難を打開する上での直接の切り口がどこにあるかを教えてくれるものでもあると私は聞きました。
 つまり、子どもが理解できずに苦しいのですから、その状態を乗り越えていくには、教師たち自身が、理解しにくい子どもについて一歩でも理解を深めていく努力を強める以外にありません。そして、同僚の教師同士の関係がきついわけですから、教師同士の関係を相談し合える関係に一歩でも変えていく以外に事態の打開の道はないわけです。要するに、教師たちが、子ども理解を深める論議を重ねながら、教師同士の関係を支え合う関係に変えていく以外に解決の糸口は見出せないということを示していると思います。
 今回の法案のように、校長、副校長、主幹教諭、指導教諭、教諭などという細分化した職階を導入するということは、こうした、教師が求めている教師同士の自発的で対等な、支え合う関係の形成にプラスになるとは到底思えません。
 
 また、私は、次のような声も多くの教師たちから聞くようになっています。
 近年、一人ひとりの子どもが感じ、考えていることを丁寧に聞き取って日々の教育活動を組み立て直していかなければ、教師としての仕事は続けられないと感じるようになっている、一人ひとりの子どもの声に耳を傾け、子どもについての全体的な理解を深めることを改めて私の教育活動の重点に置きたい、そこから一人ひとりの子どもの成長を支える教育実践と学習指導のあり方を考えたい、そして、同僚教職員や地域の人々や他分野の専門家たちと協力して子どもを支えていく道を探っていきたい。
 実際、今、こういうふうに努力を始めている教師たちがいると思いますが、こうした声は、今、日本の教師たちの間に、子ども理解の専門家、学習指導の計画的組織者、子どもが必要とする人間関係のコーディネーターといった諸側面を備えた、新しい人間発達援助専門職の一員としての教師像の模索が始まっているということを示していると思います。
 こうした教師像へ向かっての教師たちの成長を支えるためには、教師という専門職への社会的評価、尊敬を基盤として、少なくとも大学院修士課程を含んだ養成課程の充実と、現職教師たちの自発的で長期にわたる学習、研究を奨励し援助するというような研修の仕組みが必要です。教師であることをやめさせるおどしと結びついた免許更新制の導入は、日本の教師たちの質を上げる可能性は少なく、むしろ萎縮させる危険性の方が大きいと思わざるを得ません。
 
 3つ目は、2004年の秋、私は、私たちの行っています研究の一環として、カナダのトロント大学の附属小中学校を訪問したことがあります。教師の養成、再教育の機関ともなっているこの学校について、トロントのある新聞はこう書いていました。
 カナダでも、生徒がじっと座って、定められた目標に向かって定められたプログラムの学習とドリルを繰り返すファストフードショップのような学校がふえている、だが、この学校では、子どもたちが自分の足で歩いて事実を確かめ、黒板に自分の意見を書き、討論し合い、例えば町の開発計画など関心のある問題などを調べている、ここにあるのはスロースクーリングである、果たしてどちらが21世紀の学校の本流になるべきだろうか。
 この学校の校長は、私たちに対して、こう語っていました。
 現代のカナダ社会には、市販されているテストやアセスメントで子どもを診断し、数量的に目標を設定し、既存のさまざまな教育プログラムを実施していれば学校の1年間がそれなりに済んでしまうような状況もある、だが、私たちは、教師の仕事にはそれだけに解消しないものがあると考えている、それは、一人ひとりの教師が一人ひとりの子どもを全体的に深く理解する、アンダースタンディング・チルドレン・トータリー・アンド・ディープリーと表現しましたが、という問題であり、そうした教師の深い理解に支えられながら、子どもが世界と自分を深く理解して育っていく教育をつくるという課題である、そういうふうに語っていました。
 これは全くの一例ですが、国家が教育の目標を掲げて、子どもと教師と学校を競争させ、管理するような教育改革がもたらす弊害を直視して、個々の教師が子どもと向き合いながら、子どもを人間として育てる教育計画を自分の頭で構想し、その中で個々の教育目標を持つことを励ますような改革の動きが世界には起きています。今世界の注目を浴びているフィンランドの教育改革も、大きくはそうした流れの中にあると言ってよいと思います。
 私たちは、こうした、世界のもう一つの教育改革の流れも視野に入れて、国家が教育目標を設定し、その達成競争を組織し、それを通じて結局は教師の自主性と創造性を低下させてしまうような教育改革については根本から問い直す必要があると思います。
 
 以上のような判断で、私は、教育3法案は廃案にすべきであると思いますし、教育再生改革の国会や社会全体における論議の枠組み、土俵の再設定を行って、本格的な論議を深めるべきではないかというふうに思います。
 ご清聴ありがとうございました。
 
 
※本稿は、衆議院HPの議事録をもとにしています。質疑に関しては、衆議院HPの議事録を参照ください。



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