【陳述】2007/05/08
教育再生特別委員会 参考人(佐貫 浩 法政大学キャリアデザイン学部教授)
2007年 5月 8日 佐貫 浩 法政大学キャリアデザイン学部教授
佐貫と申します。貴重な時間をいただきましたことを感謝いたします。
今回の学校教育法の改正につきましては、さきに改正されました教育基本法の趣旨を徹底するという形ですすめられているものだというふうに理解しております。私自身は、教育基本法の改正は、国が国民の資質を決定して、いわば、国家にふさわしい臣民規定というものを教育基本法の中に組み込むものであるというふうに考えまして、一貫して批判をしてまいりました。そういう立場から、今回の学校教育法の改正についての私の意見を述べさせていただきます。
第1点は、義務教育の目標規定というものが非常に拡大されるということであります。
改正案によりますと、詳細な態度、例えば「我が国と郷土を愛する態度」、それから「環境の保全に寄与する態度」等々、これが学校教育法の目標に規定されるという形になっております。人間の態度の規定は、個人の行動及びその行動を生み出す内面的な価値意識そのものを法律によって法定するものであり、これは、日本国憲法の保障する、思想、良心の自由、表現の自由等を侵す可能性を持つものであることを否定できません。
これは単なる憂慮ではなしに、現に東京都で、国旗・国歌に対する態度が直接教育委員会から指示されて、それに従わない者については処分がなされる、そしてそれに対しては、いわゆる予防訴訟の東京地裁判決で、これは、憲法第19条の思想、良心の自由に対し、公共の福祉の観点から許容された制約の範囲を超えているという判決が既に出されております。
さらに、文科省が教育再生会議に提出いたしました教育3法改正の理由の中には、教育委員会が未履修問題を放置したり、国旗・国歌を指導しないなどの著しく不適切な対応をとっている場合には、是正の要求ができるように法律を変えるんだというふうに明記されております。ここからは、この学校教育法の「態度」とは何を意味するかを文科省が解釈し、それに合わない現場を法律違反状況として認定し、現場に介入することが可能な法の構造が出現すると言わざるを得ません。
特定の態度を法定し、その態度の具体的なありようを権力や行政が指定することが可能な仕組みは、国家や権力の個人の内面統制の危険性を含むものであり、そういう法構造は、戦前の教育勅語体制への厳しい批判、否定的教訓として、現在の国民主権国家を前提とする日本国憲法下においては許されないものであるというふうに考える必要があると思います。
学校教育法は、この「態度」をこういうふうに規定しますと、国家による国民資質規定法へと転換する危険性を持つものであるというふうに私は考えます。
第2は、第20条に小学校の教科に関する事項は文科大臣が定めるとなっておりましたのを、小学校の教育課程に関する事項は文科大臣が定めると改正することになっていることです。
しかし、一般に教育課程とは、単なる教科にとどまらず、道徳教育や行事を含んで、学校が行う教育活動全体の体系を示すというのが教育学の当然の認識であります。そう考えてみますと、国家が関与できるのは、教育課程全体に対してではなしに、これは抑制的でなければいけないという議論がされておりますし、現行の学校教育法では、その点を「教科に関する」という形で限定をしたわけであります。
ところが、今回の改正によりますと、文科大臣が、必要であると認定した教育課程に関する事柄を決定することができるというふうになります。
そもそも教育課程というのは、もちろん、文科大臣が決定する一定の基準がございます。学習指導要領もございます。しかし、現場の教師は、子どもの状況に応じてどのように教育の内容を教えていったらいいかということを最終的には教師が編成するという点も当然のことであります。したがって、教育課程は、行政や学校や教師、これら全体がかかわって決定することであって、文科大臣が一方的に決定することではありません。これは教育学の条理から見ても当然のことであります。
このように、「教育課程に関する事項」という形で、文科省が決定する内容の範囲につきまして行政解釈に任せるような規定を持ち込むことは、教育内容への国家統制を法的に許容するものとなる可能性が高くなります。
そのような危険を拡大してまでこの規定を教科から教育課程へと改正しなければいけない理由、根拠というものはどこにも示されておりません。なぜこのような改正をする必要があるのでしょうか。これは、教育への国家統制の危険性を拡大するだけであり、改正すべきではないというふうに考えます。
第3点でございますが、教育活動の評価につきまして、従来は設置基準にありましたものを学校教育法の中に格上げする形ですが、その際に、文科大臣の定めるところにより、すなわち、この評価の基準は文科大臣が定める、それに従えというふうに書いてあります。しかし、ここには非常に大きな問題があります。
そもそも、学校教育にとっては自主的な評価が非常に重要であります。なぜそうかと申しますと、実は、学校という教育現場は、教育的真理探求のフロンティアであります。なぜか。それは、今子供がどうなっているのか、なぜこの子どもは荒れるのか、なぜこの子どもは落ちこぼれているのか、それらに対してどうやったら解決していけるかということを、教育学理論や教育的技術を蓄積した教師、そして親、あるいは地域の住民が一緒になって考えて、どうするかということを、そこで仮説をつくり、実験を行い、そしてそれを総括して、教育的真理というものが生み出されてくる最も重要なフロンティアであります。
したがって、そのようなフロンティアにおいて、一切の制限なしに、ただ子どもの発達ということにのみ責任を負って真理探求をする、学問の自由を保障する、そして、必要なことであれば学校の目標に設定して、そのための教育プログラムを組む、こういう自由が保障されなければ、教育的真理というものが教育現場という広範な日本の重要なフロンティアにおいて発展していくということは不可能になるわけであります。
その場合の教育目標、したがって、それを評価する場合の評価基準というものは、まず第1に学校そのものがみずから決定するべきものであります。もちろん、それは親や住民に対して開かれていなければいけませんし、したがって、親や住民が教師に対してこれはおかしいんじゃないかということについては、常にオープンにしてそれに答えていく、こういう柔軟かつ教育的真理に対して開かれた自主的な評価システムというものが最も肝要であります。
ところが、文科省の基準という形になってきますと、そういう問題が抑圧されるというふうに言わざるを得ません。
それから、同じ評価の問題でいいますと、文科大臣の定めるところによりというふうになりますと、例えば、学力テストを使って評価をせよというふうに文科大臣が基準を設定しましたら、学力テストを受けるのは各学校のほとんど義務になります。現在は教育委員会が決定するということです。ということは、教育委員会が決定できるというこの重要な現在のシステムをこの文言によって否定する可能性があるということです。これも私は非常に危ういことであるというふうに思います。
それから参考までに申しますが、学力テストそのものが非常に大きな問題を持っております。
学力テストについては、1976年の学テ判決がございますが、よくお読みいただきたいんですが、この中には、例えば、試験の結果を生徒指導要録の標準検査の欄に記録させるという等、こういうのは教師の真に自主的で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとは言えずとか、また、個々の学校、生徒、市町村、都道府県についての調査結果は公表しないとされる等一応の配慮が加えられているということの上に、学テは違法ではないという判決が出されたのであります。
したがって、今回行われている学力テスト、これについては、安倍総理自身が、これをみずからの著書で、結果を公表することが必要であるというふうに書かれているようなことを見ましても、これは学テ判決からしましても許されざることというふうに読む必要があると思います。そういうものが評価の基準として文科省によって設定されて評価が行われるということは、教育の自由というものにとって重大な問題であるというふうに思います。
第4点は、高等学校の部分ですが、50条で、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて」という、この「進路に応じて」という言葉が入ります。
しかし、よく考えてほしいんですね。確かに専門教育は、農業高校とか商業高校とかいろいろありますから、進路に応じて変わるということはございます。ところが、高度な普通教育、これは、高校段階で生徒が受けるべき教育の普遍的な規定であります。この普遍的な規定に係るものとして「進路に応じて」という言葉が入るような法文構造は、これは法論理構造としましても決して許されるものではありません。これは私は間違いであるというふうに思います。
それから、その下に、これは51条の3項ですが、「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」とありましたものを、「個性の確立に努めるとともに、社会について」云々、そして「社会の発展に寄与する態度を養う」と変えられております。
しかし、個性とは、社会に対する態度をも含んで個性というふうに言うものであります。他者との関係の中で人間存在の固有性というものをどう実現できるかということが個性の中心であり、したがって、社会は何であり、その中で自分はどういう役割を果たすかということは、個性意識の中心であります。そして、この個性意識の中に社会へのかかわりが組み込まれることで主体性と社会性というものが統一されるわけであります。
ところが、この条文では、個性の確立に努めるけれども、それでは不十分だから社会についての態度を養う、これは教育学理論上間違いであるというふうに私ははっきり申し上げたいというふうに思います。
最後に、副校長、主幹、指導教諭等の設置ですが、時間がございませんので簡単に申しますが、第1に、この中では、教育をつかさどる教師という規定がございますが、文科省の調査でも、今、教師はもう本当に長時間の労働を強いられています。必要なことは、校務をつかさどるではなしに、教育をつかさどる教員の数を圧倒的にふやし、教師の条件を改善することであります。
ところが、主幹や副校長等、非常に多くの管理職、そして校務に携わるラインを強めるということは、そういう教師の全体の数をふやすことなしには、ますます教育をつかさどる教員の数が減るわけでございます。そんなことは今の改革に全く逆行する。
2つ目は、この中では、校務ラインと教育ラインというのは分けられております。しかし、学校というのは、すべての教師が、子どもをどのように育てるかをめぐって学校の運営のあり方も検討するというのが必要であります。とりわけて、教育をつかさどる教員が校務についても発言権を持つという形で学校は本当の協働が成り立つような組織であります。その点からすれば、これは校務と教育をつかさどることを分けて、しかもラインを分ける、スタッフを分けるという、これは間違いであるというふうに思います。
最後に、先ほども言いましたように、学校は教育の真理発見の最前線でございます。その中で教師が協力をして、そして自主的な目標を立てて真理を発見していく、こういう点を本当に改善すること、そして校長は、学校の中で思い切ってその自由の代表者としてさまざまな改革に挑戦すること、これが必要であります。これこそが重要であるのに、文科省が今回教育委員会のことで言っておりますように、問題があれば上から統制する、そのラインを強めるという形で教育再生が進むとは思われません。
以上のような点で、今回の改正については、重大な問題を持つものとして慎重な検討をお願いいたします。
以上です。(拍手)
※本稿は、衆議院HPの議事録をもとにしています。質疑に関しては、衆議院HPの議事録を参照ください。
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