【陳述】2007/04/26
教育再生特別委員会 参考人(勝野 正章 東京大学大学院教育学研究科准教授)
2007年 4月26日 勝野 正章 東京大学大学院教育学研究科准教授
おはようございます。東京大学の勝野と申します。
私は今日、教員免許法それから教育公務員特例法のこの改正案に関して意見を申し述べさせていただきます。最初に教師の置かれている状況について少しお話をした後、改革、すなわち、改正法案の問題点と思われることについて申し上げるつもりでおります。
最初に、教師の置かれている状況でありますけれども、レジュメに書きましたように、社会、もう少し具体的に教育に引きつけて言えば、子育てあるいは教育環境の変化といったもの、特にこれが、昨今話題になることの多い格差問題、経済的な格差、文化的格差の拡大ということが非常に大きな影響を学校にもたらしているというふうなことは、簡単に、容易にわかることであります。
また、先ほど、保護者モンスターというふうな言葉のご紹介がありましたけれども、激化する学校あるいは教師に対する批判、バッシングのあらしという中で教師あるいは学校は仕事をせざるを得ないというふうな状況の中に置かれています。
また、教育改革というふうなことにつきましても、もちろん、こうした状況を打開していくということを掲げて出されているものですが、必ずしもそれらが学校現場の現実にこたえたものになっているかどうか、あるいは性急さという点で問題があるのではないか、こういったことも指摘をされているわけであります。
教師の置かれている状況についてもう少しお話をさせていただきますと、例えば、先ほどの経済格差といった問題にかかわって、ご存じのように、朝食をとれない、あるいはとらないで学校に来る子どもたちというのは、大変この間ふえております。ですから、1時間目から体に力が入らないわけで、そういった子どもたちを目の前にして、休み時間に保健室に呼んで、自分で自腹を切ってパンや何かしらのものを食べさせているというふうな教師も決して少なくありません。
こうした教師は、こういったことは当然必要なことだというふうにはわかっているけれども、時々、これが本当の教師の仕事なんだろうかというふうな思いにも駆られるというふうなことをよく述懐されます。子どもたちは喜んで食べてくれるわけですけれども、それは本当に教師としての私に感謝しているんだろうか、子どもたちは、おなかをすかせていても、やはり学校で何か新しいことを学びたいと思って学校に来ているのではないか、子どもたちに感謝をされるのであれば、この学びたいというふうな欲求にこたえることで感謝されるのが本当の教師の姿なのではないだろうか、そんなことを先生たちはよくおっしゃいます。
あるいは、数人の子どもたちと電話で、朝御飯はきょうはちゃんと食べたかとか、きょうは学校に来られるかというふうなことから1日を始める、朝7時に出勤をして、それが最初の仕事であるというふうな教師も決して少なくありません。
例えばそういった教師の一人は、こういった子育てやそれから子育ちの環境の厳しさに向き合うためであれば、どんなに自分の体がきつくても構わないけれども、国や市の研究指定などで上から降りかかってくる仕事がとても多くて、それが大変残念でならないというふうなことをおっしゃいます。
今ご紹介をした一人の教師の例ですけれども、この女性教師は、保育所に自分の子どもを預けて、そして子どもを迎えに行って、車の中でコンビニのおにぎりを買ってきて食べさせて、また学校に戻って仕事を続ける。深夜に仕事を終えて、保健室のベッドで眠らせていたその子どもを起こして、車に乗せて帰宅をするというふうなこともしばしばでありました。
このように、今、教師たちにとって仕事の核心といったものが非常に見えにくい状況が生まれています。あるいは、仕事の核心だと自分が信じているものに対して力を注ぐことができない状況というふうなことが生まれているわけです。
多くの教師が、教師とは何なのか、教師は何をすべきなのかというふうなことを自問し始めています。そして、なぜ自分は教師になったんだろうか、これからも教職を続けていけるんだろうか、教師を続けていっていいんだろうかというふうな問いを、子どもたちにもっと多くのことをしてあげたいけれども、しかし、それができなくて申しわけないと自分を責めながら日々の教育活動をしている、そういう教師は決して今少なくないわけです。
教師の勤務条件のこういった過酷さがもたらす弊害というものは、教師の心身の健康破壊をもたらすことになります。もう少し頑張れば授業の質ですとか子どもたちとの関係をよくできるというふうに思っていても、時間が足りない、慢性的な疲労のためにあきらめざるを得ないというふうな状況が生じてきます。実践を振り返ったり、新しい着想を試したりする時間というのが教師にとっては大変大事なわけでありますけれども、そういった時間が奪われる。でき合いの教材ですとか、専門誌、専門家というふうな人たちのアドバイス、こういったものに対する依存が強まっていきます。どんなに多くの仕事をこなしても、やりがいや満足感を得ることが以前よりも難しくなってくるというふうな状況が生まれてきているわけです。
このように、教師の主体性と自律性といったものが弱まっていく、学校内外の同僚たちとの対話の時間が奪われていく、失われていくことで孤立が深まっていくというふうな状況が学校には見られます。
教職員数や予算といったものがむしろ今減らされていくにもかかわらず、やらなければならないことがふえているということが、教師が長時間の過密労働を強いられていることの大きな原因になっています。子どもたちにもっと多くのことをしてあげられなくて申しわけないという自責の念が、教師を主体的に、括弧つきですが、主体的に過密労働に向かわせてもいるというふうな状況があります。
ただ、かつてのように、自分で納得できる教育実践ができなくなっているのは、そもそも、そうしたより劣悪な状況のもとでより多くのことをすることが求められていることに原因があるというふうに考えられます。誠実な教師が陥りがちな自責のわな、自分を責めるというマインドといったものでしょうか、そういったものはやはり構造的につくり出されているというふうに考えるべきだというふうに思います。
文科省の統計によりますと、平成16年度の精神性疾患による病気休職者の教師は3559人に上ります。病気休職者全体の56・4%を占めることになり、この割合は、ご存じのように、年々上昇を続けております。また、平成17年度に退職をした広島県の小中学校教師の85%は早期退職でありました。定年までつまりもたないというふうな状況があります。教職についたばかりの青年教師から、あと少しで定年を迎えるにもかかわらず、その数年間を耐え切ることができないベテラン教師まで、中途退職をする教師が確実にふえています。
教師の自殺件数にしても、公式的には、この数年間、全国で100名前後で推移をしていますが、恐らく実態はさらに多いのではないだろうかというふうに思います。
こうした数字を見ても、今の日本の教師が置かれている状況、厳しさといったことがそこからうかがえることができるのではないでしょうか。
さて、今回のこの免許更新制等が、こういった教師の置かれている状況を改善する、そして、そのことによって、今の学力低下やいじめ、さまざまに言われている教育問題の深刻化に対して一定の歯どめをかけることになるのかどうなのか。そうした点から、今回の改正案の問題点について次にお話をさせていただきたいと思います。
問題点ということになりますが、第1に、更新制は、身分の不安定化、不安感それから多忙化といったものを促進することになります。
こういった改革は、改革の意図ということ以上に、当事者がどう受けとめるのかといったことが大事だろうというふうに思うのですが、教師は、更新制と今回の人事管理の厳格化を、政府あるいは行政が自分たちのことを信頼していない証拠であるというふうに受けとめることになるのではないでしょうか。また、社会も、教師が更新制の対象となることで、信頼を高めるどころか、一層不信の目を持って教師を見るようになるのではないでしょうか。
教師は、信頼されていないことを感じながら、また、10年に1度の更新期間までの間、免許の失効の不安にさらされながら仕事をすることになります。こうした不安の中で、教師は熱心に働いているかもしれませんが、それは、身分の不安定化と不信を感じながら、追い詰められるようにして多忙化へとみずからを追い込んでいく教師の姿です。こうした教師の姿を目の当たりにして、教職の魅力というものが失われていくのは私は当然だろうというふうに考えます。
第2に、更新制の導入は、教師の専門家としての成長の生命線とも言える自主的な研修の機会、学び合いの機会をさらに減少させることになりかねません。
更新制にかえて導入された10年経験者研修を初め、この間、行政研修は体系化され整備されてきました。行政研修の意義はもちろんありますが、教師の能力の向上にとっては、教育活動の具体的な問題を持ち寄って学び合うことができる機会が決定的に重要であることは言うまでもありません。今回、更新制が加わり、また、教員の評価の実施とともに体系化されてきた研修の受講の結果が更新の是非にもつながるということが言われています。
こうした中で、相対的に自主的な研修機会が減少すれば、研修の量はふえても、質的には向上にはつながらないというふうな状況が生まれかねません。かつて、外国から日本の教育の成功のかぎであると目されていた、称賛をされていた日本の教師の自主的研修というのは、既に、逆に外国の教師におくれをとるようになっているとまで指摘をされている状況があります。
第3に、指導改善講習を受けて、最後に改善の程度が判定をされるわけですが、この判定の妥当性に対して疑問があります。
現在も、指導力不足教員の判定、認定において、個人的な思想や信条など、本来の資質、能力以外の要素が入り込んでくる、そういった問題が指摘をされていますが、人事管理の厳格化によって講習期間を原則1年間に短縮するということがうたわれております。1年間という限られた期間での判定をすることが求められることで、判断の妥当性に対する不安というのは一層強まることが考えられます。専門家だけではなく、地域の人々の意見を聞いて判定するというふうにされていますが、どのような地域の人々の意見がどのように求められるのかというのは、ここでは決定的な意味を持ってまいります。
先ほど冒頭にも申し上げたように、教師に対する批判やバッシングというふうなことが強まっている現在の状況の中では、極めて根拠を欠いた不合理な判断というのがなされる可能性というものをぬぐい去ることはできません。私も、子どもの学習権を保障するために、いわゆる指導力不足教員の判定を厳格に行うということには反対ではありません。しかし、判定の厳格化は、判定のスピードアップとはむしろ逆行する可能性があります。むしろこれでは、人事管理による厳罰化と言った方が適切な今回の改革案であるように私には思えてなりません。
第4に、更新講習の実施体制、免許管理体制、それから、更新を受講する教師のカバーですとか校内のバックアップ体制といったものがほとんど考えられていないということが問題であるというふうに思います。
既にこのことは、教育委員会、講習を実施することになる大学、あるいは更新講習の受講者を抱えた学校現場に大きな不安をもたらし始めています。夏休みに講習を実施するなどの配慮はなされているようですけれども、夏休みでも教師は仕事をしています。こうした実際的な体制面を整えるのであれば、一体どれだけの予算上の措置、人的な配置といったものが必要なのか、そういった考慮が十分になされているようには私には思えません。少なくとも、実務上大きな支障が生じないように更新制を導入するのであれば巨額な資源が必要なはずですけれども、それを抜きにして無理に実行しようとすることでうまくいくとは私には到底考えられません。
第5に、更新講習の内容、修了の判断の妥当性という問題があります。
更新制は、必要な資質能力を刷新することを目的としていますが、この必要な資質というのはだれがどのようにして判断をするのか、それによってまた、修了の判断の妥当性ということも問われることになります。必要な資質の内容を確定するのは決して容易なことではありません。少なくとも、教育学の最先端の理論研究と教師の実践的知見の統合に基づいてこれは検討されなければならないことですが、このことが十分に考えられたとは思えません。
改革案を見ると、講習の実施主体は、具体的には教職課程認定を受けている大学の教員であるようですが、内容の基準については、従来の教職課程に適用されているよりもより一層強い、国による縛りがかけられるようです。必要な資質をだれがどのようにして判断をするのか、十分に合理的な裏づけを示した上でなければ、国の内容統制、教育に対する内容統制というものは、誤った方向での教師の画一化、さらには専門性の低下をもたらしかねないのではないでしょうか。
第6に、国の講習内容に対する統制や、これまで申し上げてきた、身分の不安定化、不安感、多忙化、自主的研修の減少、人事管理の厳格化といった状況の中で、教師のマインド、心性といったものの変化がさらに一層促される可能性があると私は考えています。端的に言えば、子ども、保護者に対して直接に向き合う教師から、行政機関の末端としての教師への変化です。
昨年12月に改正された教育基本法の16条1項には、教育はこの法律及びその他の法律に基づいて行われるものというふうな規定があります。教育行政が法律に基づいて行われるのは当然だというふうに言えますけれども、私には、教育が法律に基づいて行われるという文言に対して違和感を感じざるを得ません。
子どもたちとの直接的な人格的な交流を通して行われる教育は、法律という形式的な枠組みの中では決してとらえ切れないものです。それを無理やり法律に従わせようとすれば、教師と子どもたちとの関係も、形式的で、人間的な温かみや情感を欠いたものになりかねません。更新制は、こうした教師の心性、マインドあるいは構えといったものの変更を、さらに、その流れにさお差すことになるように私には思えます。
最後ですが、教師や学校に対する信頼は、具体的な教育実践と、子どもたちや保護者、地域の人たちとの交流を通じて獲得されるものだというふうに考えます。決して、免許を更新された教師だから尊敬と信頼を得られるというものではないと考えます。また、免許を更新された教師は、免許を更新されたからといって、教師が自信を持って教壇に立てるという保証はありません。
申し上げてきたように、更新制は、教師から子どもたちとの交流の時間や心の余裕というものを奪っていきます。そのような更新制は、子どもたち、その保護者、そしてその社会からの教師に対する信頼を高めることにはならないというのが私の結論です。
ありがとうございました。(拍手)
※本稿は、衆議院HPの議事録をもとにしています。質疑に関しては、衆議院HPの議事録を参照ください。
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